今日。おばあちゃんが僕を忘れた。

「こんにちは。おばあちゃん来たよ。」

今日の午後、叔父夫婦と同居するおばあちゃんを訪ねた僕は、いつも通りベッドに横になっているおばあちゃんに声をかけた。

おばあちゃんは、どことなく虚ろな目で僕を見上げていた。

おばあちゃんは、今年で95歳。耳も悪くなって視力もとても落ちている。筋力もなくなり、立てる状態ではないので、寝たきり という表現は適切ではないが食事やトイレ以外のほとんどの時間をベッドの上で過ごしている。

僕は聴こえなくて、目も見えにくいんだなと思ってもう1度話しかけた。

 

「おばあちゃん。1番めんこのそうしが来たよ。」(めんこ は岩手の方言でかわいいという意味)

 

僕は自他共に認めるおばあちゃん子だし、おばあちゃんも「孫、子供の中でそうしが1番可愛い。学費も全部出す。」と言うほど僕のことが好きだ。具合が悪くても、僕が行けば必ず起き上がってお話をする。他の人がお見舞いに行っても起き上がらないけれど、僕が行くと必ず起き上がって笑顔でお話をして、次の日には「そうしが来たから治った。」って言って本当に治す人だ。

 

なんでこんなに僕がおばあちゃんが好きで、おばあちゃんが僕のことが好きか。

それには僕が1番大事にしているけれど、1番思い出したくない記憶に触れる必要がある。

 

僕は小さい頃からずっと、おばあちゃんの家に預けられていた。小さい頃というのは、本当に産まれてすぐの頃だ。僕の名前「爽志」もおばあちゃんがつけてくれた。お食い初めもおばあちゃんが執り行った。

飲食店を経営していて忙しかった僕の両親は、初めての子供で勝手が分からずに僕の世話を、息子4人孫6人の面倒をみた経験豊富なおばあちゃんに預けた。

 

朝、実家で起きて1時間経たないうちに保育園へ行き、買い出しついでの両親の車でお迎えをされ、そのままの足でおばあちゃんの家へ向かう生活だった。おばあちゃんの家から実家へ帰るのは、両親が経営する飲食店の営業が終わった11時過ぎだ。

僕は、小学校二年生まで過ごした時間は実家よりおばあちゃんの家の方が長い。

両親と顔を合わせるのは、朝の食事をとる1時間と保育園のお迎えからおばあちゃんの家に向かう30分だ。

両親は決して僕が嫌いだった訳ではなく、そうするしか無かったのだ。家族の生活のため。従業員のために。しかし、愛は足りなかった。目と目を見てコミュニケーションをとる時間は少なかった。

そんな僕に、毎日愛を与えて、教育をして、目と目を見てコミュニケーションをして、手を繋いで天気の良い公園までお散歩をしてくれて道端の草花の名前を教えてくれたのはおばあちゃんだった。

だからこそ僕はおばあちゃんが好きだし、尊敬しているし、感謝している。おばあちゃんもずっと一緒にいて、親の代わりをした僕を好きでいてくれた。

 

そんな僕におばあちゃんは言った。

 

「そうし。」「誰だかわがんねぇ。」

 

冗談だと思った。

 

けど、おばあちゃんの目は、本当に誰なのか分からず、初対面の人間を見る目をしていた。

 

やっぱり耳が聞こえないのかもしれない。さっきまで寝ていたから寝ぼけているのかもしれない。もう一度話しかけたら、ちゃんとわかってくれるかも知れない。

 

「そうしだよ。」「聴こえない?」聞き取りやすいように声を大きくした。

 

「そう…し…。」

 

おばあちゃんは本当に分かっていなかった。僕が誰なのか、どんな名前なのか。2人でどんな事をしたか。僕に沢山の愛をくれたことも。

 

おばあちゃんの中から僕は綺麗さっぱり無くなっていた。

僕とおばあちゃんが18年間のうちに過ごした時間は、もう僕の中にしか残っていなかった。

 

僕は、もう何も分からなかった。この次におばあちゃんになんて言ったらいいのか。おばあちゃんに僕の事を思い出してもらえる話をすればいい?僕のことを1から説明すればいい?もうおばあちゃんの部屋を出るべき?もう何も考えられなかった。

 

さっきも言った通り、今までなら僕がくれば風邪でも、骨折していても、僕とだけは話をしていた。一緒に暮らしてる叔父夫婦や、ヘルパーさんと話をしなくても、僕とは話をしていた。

 

それなのに今は。その僕すらおばあちゃんの中にはいなかった。

 

とりあえず僕はおばあちゃんの部屋を出た。

ちょうどお昼の時間だったので、僕、おばあちゃん、叔父夫婦でご飯を食べる。

おばあちゃんは、一緒に住んでいて、毎日面倒を見て、ご飯支度からトイレまでお世話している叔父夫婦のことも分からなくなっていた。

 

「これが人間なんだな。」

叔父がひとつ呟いた。

 

僕は思った。

 

人が死ぬのは肉体的に死んだときではなく、誰かに忘れられた時に本当の死を迎えるのだ。

 

もう誰の言葉か分からないくらい使い古された言葉だ。

この言葉は半分合っていて、半分合ってない。

 

人の記憶から自分が消えた場面に遭遇した時にも人は死ぬ。

 

もう何もかもがどうでもいい。

車の免許とか、イベントとか、未来とか。

もうどうなってもいい。

 

ただ1つ。おばあちゃんともう一度。話がしたい。

今はただそれだけ叶えば良い。